
私の母に認知症の症状が現れたのは、母が68歳の時でした。
それまでは、なんでも器用にこなし、新しいことに挑戦するのが大好きな人でした。
しかし、母の認知症の症状が現れてから悪化するまでのスピードはとても早く、あっという間に変化していきました。
間近で母を見ていた父は、その変化をすぐには受け止めきれず、
「かまってほしくて嘘をついているのではないか」と、最後の最後まで思っていました。
それほどまでに、「いつもの母」と「認知症になった母」へ移り変わる時間は、あまりにも短かったのです。
結局母は,脳出血を起こしてしまい、それきっかけで亡くなってしまいましたが
それまでの慌ただしかった日々を思い出し綴っていこうと思います。
この記録が誰かのお役に立つことを願っています。
それまでの母の話
私の母は、3歳の頃に実の母を亡くしました。
畑で作業中に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったそうです。
そのため母が、物心がついた頃にはすでに後妻のもとで暮らしており、
そこでの生活は、まるで最近よくあるドラマのように厳しく、つらいものだったと聞いています。
母はもともと頭が良かったようで、地元でも評判の学校へ通わせてもらえたそうですが、
家では家事や農作業、弟たちの世話、さらには祖父母の介護まで担っていました。
家で勉強できる時間はほとんどなく、
通学の時間だけが、ようやく自分のために使える貴重なひとときだったようです。
放課後はすぐに帰宅しなければならず、学校で宿題をすることもできなかったため、
「毎朝早く家を出て、道端で宿題や勉強をする日々を過ごしていた」
そんな話を、これまで何度も聞かされてきました。
そんな母も父と出会い、結婚し、
「人生で初めて自由を味わえた」と話していました。
けれど母は、私によく
「母親というものが、あまりわからない」と口にしていました。
その言葉どおり、私や姉に対して、どこか少し距離を置いていたように思います。
それはきっと、自分が義母から受けてきた「指図」や、
逆らうことのできない環境を、私たちには決して味わわせたくない――
そんな思いからだったのだと、今では感じています。
私自身は、進学や就職、結婚など、人生の節目で何度も母に相談しましたが、
返ってくるのはいつも
「自分の好きにしていいんよ」
という言葉でした。
当時の私は、その言葉をどこか突き放されたように感じ、
「冷たい人なのかもしれない」と思ってしまっていました。
そんな「少し距離のある親子」として長い間過ごしていました。
突然の出来事
仕事や子どもの部活動、PTA活動に追われ、実家に顔を見せることもなく
夜間や休日もほとんど休みなく動いていた、ある日のことでした。
父から一本の電話がかかってきました。
「母さんが風呂場で転んで、頭を打ったみたいなんじゃ。
でも救急車は呼びたくないって聞かんのよ。
わしは酒を飲んでしまって運転できんけん、今から救急外来に連れて行ってもらえんか?」
という内容でした。
私は子どもたちを家に残し、急いで実家へ向かいました。
母はかたくなに「病院には行かない」と言い張りましたが、
どうにか説得し、夜間の救急外来へ連れて行きました。
診察の結果、母は頭を強く打っており、
そのまま入院し、翌日精密検査をすることになりました。
母の容態(認知症のきっかけ)
翌日の検査で、母の頭にわずかな出血があることがわかりました。
幸いにも出血はすでに止まっているとのことで、担当医からその説明を受けました。
ただ、強く頭を打っているため経過観察が必要とのことで、数日間はそのまま入院すること、
あわせて他にもいくつか検査を行う予定だと伝えられました。
その話を聞いた父は、「おおげさなことを…」とつぶやき、
それを聞いた母は、どこか気まずそうしていました。
私は、そんな父をなだめながら、ひとまず母の着替えを取りに行くことを理由に父を家まで送り届け、
その足で再び病院へ戻り、入院の手続きや必要な準備を進めました。
それからというもの、私は毎日、昼休みと仕事終わりの時間を使って病院に通うのでした。
(田舎の病院だったため、家族の面会時間も比較的ゆるやかで、融通がきいたのです。)
その頃から、母の様子にほんの少しずつ違和感を覚えるようになりました。
夜中になると、私の携帯に何度も電話をかけてきては、
「頭が痛い」
「看護師さんが話を聞いてくれない」
「先生の回診が来ない」など、
不安や不満を言うようになりました。
お見舞いに行っても、今が昼なのか夜なのかわからないようなことを言い、挙句の果てには
「もっと見舞いに来れるだろう」と私にきつく当たったりするのでした。
当時の私は、それを深刻に受け止めることができず、
「一日中部屋にいるから、気が滅入っているだけなのではないか」と考えていました。
そこで看護師さんに、母の現在の容態を詳しく聞き
「特に問題なければ、もう退院しても大丈夫でしょうか」と相談してみたところ、
翌日には許可が出て、母は退院し通院ですることになりました。
そのとき、担当の看護師さんから
「ご自宅には、いつも誰かいらっしゃいますか?」
と、とても心配そうに声をかけられました。
私は、仕事の合間や終業後に病院へ通う生活にすっかり疲れ切っていたこともあり、
「はい。父がいますから大丈夫です!」と答え
「これで少し楽になれる…」と、ほっと胸をなでおろしていました。
しかし、
本当の大変さは、ここから始まることになるとは、そのときはまだ思いもしませんでした。
あのときの私は、
母の変化と、看護婦さんが私に言った“本当の意味”に、まだ気づいていなかったのです。
今振り返ると、あのときの母の言動は、
「ただの不安」や「入院によるストレス」ではなかったのだと思います。
夜中に何度も電話をかけてくることや、
周囲への不満を強く訴える様子は、
すでに認知機能の変化が始まっていたサインだったのかもしれません。
けれど当時の私は、「いつもの母」と同じように考えてしまい、
「毎日の散歩に行けないからかな?」
「育てていた花や野菜が心配なのかな?」
としか思えず、その変化に気づくことができませんでした。

